長らく欠勤していた担任が帰ってきたのはその後すぐのことだった。
いくらか頬がこけたその教師が戻ったことにより、マオリのクラスはいつも通りの日常へと戻っていく。
補講を何とか乗り越え、マオリの放課後の予定は空白となる。
彼女の趣味はショッピングだが、今はあまりそういう気分ではない。
心に小さな隙間ができたような、物足りない日常。
彼女はいつの間にか、放課後の補講のひとときを楽しみに感じていたのだ。
焼けるような夕日の空でも眺めようと、マオリは中庭を訪れる。
彼女の特等席は噴水の近くのベンチだ。水しぶきを囲むようにいくつか並んでいる。
一人で昼食をとる時、物思いに耽りたい時、彼女はそこを訪れるのだ。
ちなみに木陰になっているところのベンチには時々先客がいる。
青い髪のその人物は、マオリと対なすようにいつでも教科書を片手にしている。
その生徒も自分と同じように孤独なのだろうと声をかけたこともあったが、『彼女』は面倒くさそうにマオリを一瞥すると愛想の欠片もない一言二言を返して自分の世界へ帰ってしまうのが常だった。
今日はその小さな背中の代わりに男性の後姿があった。
――アンリだ。
そっと彼に後ろから近づくと、彼は足元に集う小鳥をスケッチブックに写生しているところだった。
緻密に描き込まれたそれは、趣味の範疇で語るだけでは勿体ないほど。
「シュタイン先生!」
声をかけた瞬間、小鳥が一斉に飛び立ってしまう。
その軌道を追ってから、アンリが振り返った。
「逃げてしまったではないですか……」
「わ、わざとではありませんわ!!」
スケッチブックのページをめくり、すべてを白紙に戻す。
今度は何を描こうか、と周辺を見渡す彼の隣に、マオリはちゃっかりと座った。
「絵が上手ですのね」
「ただの趣味です。
それより、僕に何か用事でも?」
「ほら、補講が終わってしまったでしょう?
わたくし暇を持て余しておりますの。
貴方もそう?」
「まさか。息抜きですよ。仕事は山積みです。
誰かさんの補講が1ヶ月もかかってしまって、本業に専念できなくて」
「んもうっ!! イヤミでしてよ!!」
アンリはあまり饒舌な男ではない。
沈黙が続き、マオリは退屈そうに膝の上で頬杖をつく。
しかし、不思議と心地の良い静寂だった。
「ねぇ、シュタイン先生。
もう精霊術の授業はなさらないの?」
「貴女の成績で担任の胃に穴が開けば、また僕の出番かもしれません」
「……貴方、皮肉以外のお話はできませんの?!
でもまぁ、それはそれでいいかもしれませんわね!」
「冗談ですよ。実行されたらたまったもんじゃないです」
苦々しい横顔は相変わらず紙面に鉛筆を走らせている。
何を描いているのか覗き込もうとすると、彼はそれを遮った。
むう、とマオリは頬を膨らませるが、彼はそんな不満に目もくれない。
「わたくし、錬金術科に移籍しようかしら」
「何故?」
「貴方の授業じゃないと、やる気が出ませんのよ」
「まず万が一にも貴女が錬金術科の試験に合格できるとは思いませんが。
仮にこちらへ来られたとしたら、僕の胃に穴が開きます」
「キィィ!! あぁ言えばこう言う!!
見てなさいですわ、わたくし博士課程まで進んで貴方を見返してやりますの!!」
「一体何十年後になるやら。僕の寿命が先に尽きるかもしれませんねぇ」
相変わらずの口ぶりだったが、彼は少しだけ嬉しそうに微笑んでいた……気がした。
校門の近くに立つ時計に目をやってから、アンリはゆっくり立ち上がる。
行ってしまうのか、とマオリは少しガッカリしてしまった。
――こうして誰かと雑談を交わせる時間が、たまらなく愛しいのだ。
「僕は仕事に戻ります。
そろそろ冷え込んできますから、貴女も早く戻った方がいい」
そう言いながら、彼はスケッチブックのページを1枚切り取る。
それをマオリに差し出しながら、それじゃあ、と背を向けた。
つい先ほどまで彼が描いていたもの、それはマオリの横顔だった。
絵を受け取ってポカンと呆けていたマオリに、「あぁそうだ」とアンリは呟く。
「この前いただいたクッキー、とても美味しかったですよ」
気付けば、彼が去る足音よりもずっと速く、マオリの鼓動は急いていた。
-04-
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