彼女はフォシルという名前だった。
白の国の学校で事務職をしていたごく普通の女性だ。
辺境の田舎村出身らしく、口調は少し訛り気味だがいつもニコニコと微笑んでおり、春の陽気のようにのんびりとした性格である。
あまりにものんびりしすぎており、正直なところ世辞にも仕事の出来る類の人物とは言えなかった。
鈍臭く、簡単な書類さえも間違い、何もない場所で躓いてお茶を零すような、そんな女性だ。
当時教授として在籍していたグレンは、学校の受付でいつもニコニコ座っているこの女性を当初は気味悪く思っていた。
愛想の良さだけで受付を任されており、そうそう客が来るわけでもない受付の席に何時間も同じ表情のまま座っているのだ。
グレンは学生の頃から極度の愛煙家であり、煙草の為に外へ行く際よく受付前を通るのだが、一服して戻ってきても笑顔のまま微動だにしないフォシルが嫌でも目に付く。
ある日、一夜限りの関係を持った彼女の同僚に探りを入れると、意外な姿が明らかになる。
「あの子、休憩時間はずっと学校の教科書眺めてるのよ。わかりもしない癖にね」
同僚の口振りから察するに、友人と呼べる者は職場にはいないのだろう。
普段受付に座っている姿しか知らないグレンは教科書の謎に興味が湧き、フォシルの休憩時間を狙って給湯室を訪れたのだった。
確かに、フォシルは持参の弁当をつつきつつ教科書を読んでいた。
どこで手に入れたのか、それはグレンが担当する科目のものである。
こういうのも何だが、グレンが担当する分野はなかなかニッチな部分であり、実際に受講している生徒も音を上げるような難易度だ。
丁度いい口実が出来たとばかりに、グレンはフォシルの向かいに腰を下ろす。
鈍臭いにもほどがあるが、フォシルはしばらく教科書に夢中になっており、箸を休めて茶を飲もうとしたところでようやくグレンに気が付いた。
「興味あるのか、それ」
グレンの問いかけに意味などない。単に、相手がすぐに落とせそうな女かを測るための材料だ。
もちろんフォシルはそんな事は知らず、学内で知らぬ者はいないほど有名なグレンを、まさに“初めまして”という律儀な態度で迎えたのだった。
毎日何度も目の前を通っている存在だというのに、フォシルの目にはただの日常風景としか映っていなかったのだろうか。
「ふふ。こうしていると頭が良くなったような気がしません?
もちろん、全然理解できないのですけれどねぇ。
これが全部わかったら、人生も変わるかもしれませんねぇ」
あの不気味な受付人形が言葉を発している・・・――
グレンは妙に気分が高揚する感覚を覚えた。
後にも先にも、こんな気分を感じたのはこの時だけだ。
飾り気はないが芯のある茶色い長い髪と、化石でも見ているかのような途方もない落ち着きを持った砂色の瞳。
少しばかりソバカスを浮かべる白い肌は、寒い地方出身だとすぐにわかる質感だ。
どことなく垢抜けない、それでもどこかで一度は見た事のあるような容姿。
平たく言えば、可もなく不可もない、ごくごく平凡な女性。
まぁ胸の大きさは及第点かな、とグレンはさりげなく視線をそこへ落とす。
「教えてやろうか?
その教科書は俺の相棒だからな」
裏を返せば、これでうまく宿に誘えたら御の字。
だがフォシルは言葉通りに受け取り、グレンの予想以上に喜び、教鞭を求めたのだった。
――あぁ、そういう意味じゃねぇんだけどな・・・。
グレンの謀略は空振りに終わったが、本当の意味で、2人の個別授業が始まった。
-03-
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