毎日夕方から夜の食饌までの間、リシアは王妃とピアノの練習をするのが日課だった。
リシアの優秀さを絶賛する誰もが一番に挙げるのが、このピアノの腕だ。
まだ両手の指に収まるほどの年齢のうちに国の音楽方面の賞を総なめし、現役の大人の音楽家達も閉口するほどの腕前を発揮していた。
賢く、美しく、それでいて類稀な音楽家の才能もある。
まだまだ幼いうちから、リシアには各国貴族達からの求婚が相次いだ。
うっかり口を滑らせた者がリシアの方が王位に相応しいと吹聴し、不敬罪で投獄される事も珍しくなかった。
そんな姉の姿を見ていたせいか否か、ある日コーネルは唐突にピアノに触れたいと王妃へ密かに申し出たのだった。
密かに、というのが彼を苦しめていた元凶の1つでもある。
リシアは王女であり、いつかは他の家へ嫁いでいく存在。未来の伴侶に相応しい女性となるように、芸術に励む事を推されていた。
ところがコーネルは王子だ。次世代の国王となる存在であり、音に触れる暇があるのなら勉学や剣術の1つでも学べ、というのが現実だ。
それでもやっとの思いで告げた言葉を汲み取った王妃は、喜んで息子をピアノの前へ招いたのだった。
本来なら芽さえも出さなかったであろう、息子が抱え込んでいた能力。
王妃を始め、城の者、ひいては国中の者が、すぐにその大きさを目の当たりにする事になる。
当時の王妃は軽い気持ちで鍵盤に触れさせたのだろう。
だが説明を始めるまでもなく、コーネルは初めて座ったその席でいつもリシアが弾いていた曲の一節を弾いて見せたのだった。
驚いた王妃が尋ねれば、リシアが奏でる音と仕草をそのまま記憶していたのだという。
彼の過敏な神経は困らせる事がほとんどだったが、その能力が音を奏でるという行為にうまく噛み合ったのかもしれない。
すっかり息子の音色に虜になってしまった王妃は、国王の渋い顔を余所にコーネルへピアノを仕込む事を宣言した。
そしてそれは功を奏し、瞬く間にその奇才を伸ばしていったのだった。
まさかの身内から出てきた脅威にリシアも負けじと練習を重ねるが、それを物ともしない弟の才能に思わず苦笑するしかなかった。
ピアノに出会ってからのコーネルは少しずつ笑顔が増えていった。
国王としては未来の王候補が音楽家の道に走るのではないかと懸念し胃を痛めていたが、王子としての教養を深める事に手を抜かないと誓うのを条件に許した。
結局勉学は苦手なままだったが、それでも少しは幼心が晴れたのだろうと思えば黙認していた。
――だが、そんな平穏の日々が、次代の国王の即位まで続く事はなかった。
いつも通りピアノの手ほどきを受けていたコーネルの目の前で、王妃は病に倒れてしまったのだ。
3人目の子供も視野に入れていたほどまだまだ若い王妃が突然臥せってしまい、王城は混乱に陥った。
もちろん国王は注ぎ込む金銭の額も顧みず王妃を救える医者探しに躍起になり、まだ母親が恋しい頃であるリシアは無理を押して父王と弟の支えになるように駆け回る。
王妃の病は公にされなかったが伝染するものだったらしく、少々病弱なコーネルは半ば軟禁に近いほど母親から隔離され、付き人にはその経過を固唾を呑んで見守られていた。
母が臥せっている間は、雑念が走る心を落ち着かせようと、彼は自室に篭ってずっとピアノを弾いていた。
あわよくばこの音色が王妃の耳に届くよう、そう願って。
その想いも空しく、王妃は力尽きてしまう。
コーネルがやっと再会できた頃には、王妃はもう冷たくなっていた。
声を上げてわんわん泣いているリシアの傍らで茫然と立ち尽くすコーネルの姿は、どこか子供らしさを置き去りにしてしまったよう。
葬儀の間もずっと唇を噛んでいる小さな王子の姿は民衆の心に深く突き刺さったのだった。
その時から、彼は涙を見せなかった。そう、“見せなかった”のだ。誰にも。
ただ声を殺して、誰もいない部屋で必死に哀しみと戦っていた。
母を亡くして涙の1つも流さない王子を見た一部の者が、ついに心さえも壊れたかと揶揄する事もあったが、それは誰も真実を知らなかったからだ。
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