見上げるほど巨大な邪なる者は、もうそこにはいなかった。
力が抜けてよろめいたハイネの目の前に、あのカイヤがしゃがみ込んでいた。

「お父さん、お父さん……――あああああ……」

泣きじゃくる彼女はまるで子供だ。
青い髪を振り乱し、地面の砂を握りしめ、声をあげて泣いている。

「カイヤ、先生……?」

「うう、ううう……」

そこにはもうクレイズの姿はない。
ハイネの手に収まる懐中時計は、素知らぬ顔で静かに鎮座している。

「カイヤ先生……戻った……?
戻ったんか……?」

「ハイネ、さん……」

涙で濡れた顔を上げ、カイヤはハイネに手を伸ばす。
あまりにも弱々しいその仕草に、ハイネは思わず膝をついて抱きしめた。

「カイヤ先生! よかった、もう大丈夫だよ!
うちらが助けに来たから!」

「わ、私、一体何を……」

「邪なる者になってたんよ!
ねぇ、レムリアさんにやられたん?!」

少しの間視線を彷徨わせてから、カイヤはハッと視点を定める。

「そ、そうです! あの男!!
私に妙な注射を……――」

「まさか、暴走から生還する存在がいるとは、驚きました」

カイヤの後ろに人影。
――レムリアだ。

ハイネは咄嗟にカイヤを自らの身で庇うように覆い隠す。

「……あなたがやったんですね」

「えぇ、そうですよ」

寸分の躊躇いもなく彼は頷いた。
手元にはその証拠である空の注射器。
そして、彼の色白の顔に点々と付着した、赤い飛沫。

この生々しい赤色の出所は、どうやらレムリア自身ではなさそうだ。

「面白いものを見る事ができました。
邪なる者は“使い捨て”であるという通説が覆る」

「なっ……」

深淵の瞳がカイヤを見下ろしている。

「か、カイヤ先生はもう渡さんから!! 絶対!!」

「はは。それはまぁ当然の流れですね。
大丈夫ですよ。深追いはしない質なのです」

レムリアは一歩後退し、微笑む。

「ハイネさん。貴女は受け取ったのでしょう?
“我々の世界”への道しるべを、クライン君から」

彼がローブの下からちらつかせたのは、赤黒く染まったナイフだ。
その意味を悟ったハイネは、真っ青になる。

「いいですよ、お行きなさい。
私達の故郷を見て貴女が何を思うのか。
楽しみにしていますよ。
“何十年”でもね」

レムリアはそう述べると、ゆっくりと背を向け、去っていった。



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