深夜、暗い廊下の片隅で、声を殺して泣いた。
手首に結んだ黒いリボンを握りしめて、歯を食いしばって声を抑え込む。

初めて、“どうして自分が”と思ってしまった。

他の人だったらどんな選択をするのだろう。
少なくともハイネは、薄い壁の向こうにいる、見えている誰かの悲しみや苦しみを素通りできるほど冷徹になれない。
悲鳴に耳を塞いで走り抜けるなんて、自分のプライドが許してくれそうになかった。

そこでふと、かつて夢の中の旅人が語った話を思い出す。
同じように歴史を旅していた男がどうやって心を壊していったのか、わかったような気がして。

本当に、同じ道をたどってしまうかもしれない――そう、恐怖した。



「ハイネ」

軋む廊下の床から伝わってくる足音。
ゆらりと顔を上げれば、いつになくすまなそうな顔のヒスイがいた。

「ほっといてって言ったやろ」

「いやその、なんだ……。
ほんまに、すまんかった」

深々と頭を下げる彼に、ハイネの方が面食らう。

「……ワイもな、ちと盲目的になっとった。
兄貴のこととなるとなぁ、つい感情的になってもうて……」

膝を抱えるハイネの隣に、ヒスイが腰を下ろす。
一瞬不服そうな顔を浮かべた彼女だが、仕方なく隣を譲った。

「そんなに熱くなるん?」

「兄貴は……今の立場が間違いやとわかっとるはずなんよ。
でもそこから抜け出す方法がない。背反すればアガーテ様がどうなるかわからんしな。
しかしこのままじゃ、いずれワイは兄貴と対立することになる。
そんな物騒な兄弟喧嘩は嫌やて。
できれば兄貴にも、ワイらの仲間として戦ってほしい。
クソみたいな主に仕えて、女とられて、それで死ぬなんざ、不憫すぎるわ……」

「ヒスイ兄ちゃんは……“兄貴”のこと、好き?」

「そりゃあな。二人で生き残ってここまで来た。
チビの頃は、兄貴によぉ面倒かけたしな。
ずっと、憧れてた。強くて、クールな、騎士様ってな。
……なんや、そっちのワイらは不仲だったんか?」

「よぉ知らん。
そもそもおとんに弟いるのさえ、ここ来るまで知らんかったわ」

ズゴッ、と音が出そうなほど体勢を崩したヒスイを見て、ハイネは少し笑った。
彼はハイネを笑わせようとしてくれたのだろう。今は翡翠の瞳を柔らかく細めている。

――あぁ、すごく懐かしいな。

少しだけ、寄り道をしたくなった。




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