「お、おい」

低く、でも少し上ずった声が呼びかけた。
ハイネの荒い息遣いがその後の沈黙に響く。
彼女の渾身の体当たりを微動だにせず受け止めた屈強な体躯の持ち主が、遠慮がちに彼女の両肩に手を添えた。

「大丈夫か、ハイネ……?」

「え、ぅ、……ヒューラン?!」

褐色肌に浮かぶ、透き通るような珊瑚色の瞳。そこには、絶対他人に見せたくない状態の彼女の顔が映る。

「あ、あれ、腕は……? 黒い腕……」

「黒い腕?」

ヒューランはハイネが放り出した部屋の向こうに目をやる。
そこにあるのはぐちゃぐちゃに乱れたベッドだけ。

「……すごい寝相だな」

「は?!」

思わず髪の毛が逆立ちそうな誤解をされ、ハイネは自分の肩に添えられた手を振り払って頬を膨らませる。
少しだけ名残惜しそうに手を戻したヒューランは、もう一度彼女に「大丈夫か」と問いかけた。

「ご、ごめん。ヘンな夢見ちゃって。
ヒューランこそどうしたん? えらい早起きやん」

「俺はいつもこのくらいの時間に起きるんだ。
屋敷にいた頃の癖で」

所在なげに視線を泳がせた彼は、すぐそこの扉を捉えた。そこから中庭に出られるようだ。
どちらともなく、外へ繋がる取っ手に手を伸ばす。



美しい庭だった。
大理石の噴水が静かに水を流している。
咲きかけの薔薇がアーチを彩り、レンガの道を甘く濃厚な香りで満たしていた。
立方体にカットされた低木の葉の上で朝露が滑る。独特の湿気がしっとりと肌を潤わせた。

「……綺麗だな」

ぽつりとヒューランが呟く。
心の底からの言葉と言うよりかは、ハイネとの間の沈黙にいたたまれず紡いだものに思えた。
二人で薔薇のアーチをゆっくりとくぐる。こんなに美しい薔薇が咲くのに、城内は何故百合ばかり生けているのだろう。

「その……さっきはごめんな? おどかしてもうたやろ」

「そうだな。ここ数年でいちばん驚いた。お前の寝相の悪さに」

「ちょっと! まだそれ言う?!」

彼の端正な横顔の口元は少し微笑んでいた。
そういえば、ヒューランと雑談まがいの時間を共有したのは初めてだ。
彼は基本的に寡黙で、数少ない貴重な発言さえも従者のヒスイが横取りしているような有様だからである。

「……ヒスイ兄ちゃんは?」

「寝ている。あいつは朝に弱いんだ。あと数刻は絶対に起きないだろう」

仮にも王位を継ぐかもしれない者に仕える騎士として、それはいかがなものなのだろうか。
そういえば、ハイネの父親も朝にすこぶる弱かった。早起きする用事があれば「寝ない方がマシ」と言うほどに。
世界は違えど、やはり兄弟なのかもしれない。

「ハイネ、1つ聞いてもいいだろうか」

「うん、なあに?」

視界の隅に映ったカタツムリの気配に足を止めたハイネに気付かず数歩進んでから、ヒューランは立ち止まった。

「ハイネ……お前は何を求めて旅をしているんだ?」

ついにきたか、とハイネは身構える。
いずれ誰かから聞かれるとは予想していたが、いざその時が来ると答えに詰まる。

「えぇと……やっぱ気になる?」

「それは、まぁ……。
お前は他の人間と何かが違う、気がして。
古い歴史を、本当に見たかのように知っている。
俺達に協力しようと申し出たのも、何か意図があるんだろう?」

ヒューランは王子だ。彼にとって今のハイネは、素性の知れない存在に等しい。
もしかしたらヒスイ辺りに突かれたのかもしれない。
“信用がない”というものは、実に居心地が悪く寂しいものだ。

「全部は、言えないけど。
うちはその……故郷に帰りたい、っていうか」

「故郷?
それは何処なんだ?」

「ずっと、遠いとこ。ヒューラン達とは“違う”ところだよ」

「……そうか」

ゆっくり背を向けたヒューランは、頭上のアーチを見上げる。
もっとも長身の彼にとっては、薔薇が描く弧はさほど高くはないのだが。

「付き合わせてすまないな」

「ううん、ブランディアのためだよ」

「……そうだな」

不意に彼は俯く。

「どうかした?」

「本当は違うんだ」

何が、と聞く前に彼はハイネに歩み寄る。

「俺は妹を……イザナを救いたい。
だから、ジスト陛下から無事に支援物資を受け取った暁には、俺は白の国へ向かう。
イザナを連れずにブランディアへは帰れない。
身内の一人も切り捨てられないなんて……俺にはジスト陛下が言うような王の資格がないんだろうな。
ヒスイにも言われたんだ。イザナをアルマツィアへ逃がした時に。
『妹は死んだと思え。上に立つのなら覚悟しろ』と」

そこには王子ではない、『兄』としての彼がいた。
だがハイネは、そんなヒューランの方に胸を打たれたのだった。

「うちには兄ちゃんも姉ちゃんもおらんけど……
助けに来てくれる家族がいるって、とっても幸せなことだと思う。
イザナって子も、きっとヒューランのこと、待っとるよ。胸張って助けに行けばいい」

本心をさらけ出すことに怯えていたようなヒューランだが、ハイネの言葉でゆっくり微笑んだ。

「お前は、やっぱり不思議な存在だ。
……まるで優しい夢を見ているような気分になる」

定刻のホルンの音が響く。1日の始まりの合図だ。
気持ち足取りが軽くなったようなヒューランを追って、ハイネは城内へ戻った。




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