馬車の馬に水を飲ませようと近場の泉まで足を運ぶアトリ。
騎馬の扱いに慣れている彼は、ウバロに不信を抱く2頭の馬を休ませる傍ら、若々しいたてがみを整えてやっていた。
リラックスしたように足元の草を食む馬は、気の向くままに泉の周辺を歩き回る。
そのうちの1頭が、ピンと耳を立てて首を上げる。
おもむろにそちらへ歩き始めた馬に気付いたアトリは、慌てて追いかける。

その先でとんでもないものを見てしまうとは知らずに。



「きゃああっ!!!」

バシャッ、と泉の水がはねる。
少女の叫び声と目の前の光景を理解するまで一瞬、間が空いた。

「なっ?! ベティ、ここで何を……」

「見ればわかるのです!! ていうか見るななのです!!
アトリさんの変態!!!」

パシーン!!と甲高い音が響いた――……





一国の王子は、手の形に腫れた頬を押さえつつ、泉の傍で正座をしていた。
目の前には仁王立ちの少女、ベティ。
頬を膨らませ、大層ご立腹のようである。

「す、すまない……。覗き見るつもりはなかった。
まさか水浴びをしていたとは思わず……」

「今すぐ記憶を抹消するのです。
レディの一糸まとわぬ姿を見るなんて、いくら事故でも万死に値しますですよ。
これがユーファさんだったら、泉に沈めていたところなのです」

「あ、あぁ、本当に……悪かった……」

「……まぁ、反省しているなら、許してあげてもいいですけど」

まだ濡れている髪を拭きつつ、ベティは不服を堪えている。
しかしアトリは、彼女の無防備な姿を見てしまった事の他にも、もう1つ謝るべきものがあった。

「その……すまない。見えてしまったのだが、君の右肩の火傷痕は……?」

ぴく、とベティは反応した。
無意識か、彼女は自分の肩を押さえる。

「大した事はないのです。痕になっちゃってるだけで。
ベティは痛みなんて感じないんですもの」

「……そんなはずは、ないだろう?」

「本当です。ベティのパパは屍だったので、ベティも半分は死んでいるのです。
ゾンビはどんなに怪我をしても痛くないのですから」

いつもふにゃりと笑っている彼女が、今は表情を強張らせている。



「ベティが全然痛がらないから、イオラ様はベティの体でいろいろな実験をしました。
ベティで試された道具は、イオラ様に反した悪い人に使われたのです。
たくさんの悲鳴を聞きました。でもベティにはその苦しみがわかりません。
人の痛みがわからないのに聖女だなんて、笑っちゃいますよね!
……優しい聖女様だったお母様とは、違うのです」

小さな手が、傍らの小石を掴む。
ぽい、と投げ込むと、小さな波紋が広がった。

「……炎は、キライです。
大好きなお母様と、おば様と、パパを殺したから。
それに、他の傷はすぐ治るのに、火傷だけはいつまでも治ってくれない。こんな醜いもの、早く消えてほしいのに」

「あぁ、私も炎は好かない。
もし君が倒れている私に気付かなかったら、ここに私はいなかっただろう。
我ながら無茶をしたと、少し身震いしてしまう」

アトリも小石を投げる。
2,3回水面を跳ねると、静かに沈んでいった。

「その火傷は……イオラ殿に?」

「……そうです。
暖炉に突っ込んだ鉄の棒で。
罪人の証です。ベティはイオラ様のご期待に沿えなかった、不良品です」

「君はイオラ殿に尽くしたかったのか?」

夜風が二人の間を吹き抜けた。
泉が音もなく小さな波を立てていく。
俯く少女の波打つ心に、そっと耳をすませる。

「あの人が正義だって、信じてなきゃ立っていられなかった。ただそれだけです。
ベティの家族を奪って、ベティを奪って。
世界の秩序のために使われるなら、ベティは価値のある存在だと思えたのですよ。
でも、結局はただの独裁。暴力でしかなかった。
となると、ベティの幸せはどこにあるんです?
この世界にはそんなものはないって、言われちゃったようなものです」

零れた雫は濡れた髪のせいではなかった。
アトリはじっとベティの横顔を見つめる。

「いっぱい、痛いんです。刺された時も、叩かれた時も、もちろん焼かれた時も。
あんな『痛み』は幸せじゃないです。でも認めたくなかった。だから笑ったのです。
ずっと笑っていました。痛くない、ベティは幸せよ、って、信じていたくて。
でも……笑うの、疲れちゃいました」

「当たり前だ。君は『生きている』のだから」

濡れているベティの前髪をアトリがそっと退ける。
潤んだ大きな瑠璃の瞳と目が合った。

「君はずっとこうして涙を隠していたのだろう。
だがもうその必要はない。笑顔は、作るものではないのだ。
ほら、その瞳は隠してしまうのは勿体ないぞ」

ぐしゃりと歪んだベティの顔。
流した涙は、ひょっとしたら泉をもう1つ作ってしまうほどの量だったかもしれない。



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