黒い水面から立ち上る、香ばしい香りを含んだ白い湯気を見つめる。
曇った眼鏡を外してゴシゴシと拭いたカイヤは、晴れた視界の向こうで真剣にこちらを見つめるハイネの顔を確認する。
「誰かが……いました。先生、もうずっと1人でここに住んどる言うてたのに」
「えぇ……」
「ずっと、ですか?」
「……ずっと、です。アナタがこの学校に入学した頃から、6年間。ずっと」
「あの人……まさか」
緊張した面持ちで目線はこちらのまま、ハイネは角砂糖を自分のカップに落とす。
次にカイヤが口を開くまでの時間で、ハイネの手は砂糖の入ったビンとコーヒーカップの間を3,4回往復した。
「驚くのも無理はありませんね。“あの人”は6年間ずっと、行方不明という扱いでこの世界は動いている。
……そう、アナタが見た人。向こうの部屋で眠っているのは紛れもなく、私の父。クレイズ・レーゲン教授です」
「そんな……。うち、てっきりあの先生はこの学校にはもういないんだとばっかり」
「他の人もそう思っているはずです。
向こうの部屋に父が……――博士がいるのを知っているのは、この学校の中では学長と、アンリ先生だけです。
知られてはいけないんです。ここに博士がいる事を」
「どうして?
病気なんだったら、お医者さんに……」
カイヤは静かに首を横に振る。
「絶対に、ダメなんです。意識のないあの人をここから出すわけにはいかない。
……ねぇ、ハイネさん。“別の世界”って、信じますか?」
焼き菓子を摘まむハイネはキョトンとする。
「別の世界?」
「これも、この場だけの話です。
……世界はここだけじゃない。別の歴史を歩んでいる他の世界が、無数にあるんです。
博士は、“そこ”から来た人です。異世界の人間なんです。
……ね? どんな扱いを受ける可能性があるかくらい、容易く想像つくでしょう?」
それも、今では唯一無二の存在。
同じ立場だったもう1人の三賢者はこの世を去り、一方で昏々と眠り続けている「彼」は何をされても抵抗の手段がない、植物状態だ。
「ハイネさん。聞いてしまったからには、この事を外で口にする事は私としては絶対に許せない行為となります。
脅すようで申し訳ないんですけど、アナタを信用しての事ですから」
「先生……」
どっぷりと甘くなったコーヒーをぐるぐるかき混ぜる。
――ハイネが見つけた返す言葉は、意外なもの。
「6年もずっと、クレイズ先生を守ってたんですね、カイヤ先生。
うちそんな事も知らんで、生意気なことを……。
ツラくなかったですか?」
ふ、とカイヤは微かに笑う。
彼女には自覚がないが、彼女の父が不意に漏らしていた表情とよく似ている。
「そりゃあ、辛い事ばかりですよ。
私はね、こんな性格なのでよく誤解されるんですけど、他の人が思うほど心が強くないんです。
博士はずっと私の心の支えだった。今はもう頼れない。
子供の頃、もっと素直に甘えておけばよかった、なんて……時々思ったりして」
「クレイズ先生、病気……なんですか?」
「……どうなんでしょう。正確にはちょっと違う気もしますね」
「ずっと眠ったまま……って、いつかは起きてくれるんですか?」
「わからないです。でもそのために、私はずっと研究をしているんですよ。
そっちの話はハイネさんも知ってますでしょう?
解毒剤の開発。私の生涯かけての研究課題です」
「そっか、……それじゃあ、カイヤ先生の研究って、クレイズ先生のためだったんだ」
「表向きは大勢の同じ症状の患者を救うためという理由ですけど、本音はそういう事です。
学者なんて、自分の事ばっかり考えてますから」
自嘲気味に苦笑いをするカイヤ。
いつもは上に立つ者として厳しい目をしている彼女だが、今の彼女はどこか心細そうな少女の瞳。
「それとね、ハイネさん。実はもう1つ、私が最近始めた研究があるんです。
これはアンリ先生さえ知らない代物ですよ。気になりますか?」
2人の視線が傍らで布を被っている大きな箱に移動する。
ぐい、とコーヒーを飲み干したカイヤが、その布をバサリと取り払った。
-06-
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