部屋に戻ったハイネは、うんうんと唸っている。
旅支度を整えていたトキが、ハイネの様子を見かねて顔を覗き込んできた。

「何か父さんと話をしていたみたいですけど……どうかしたんですか?」

「うん、ちょっと予定が狂ったっていうか。
あっ、行き先は変わらんのよ。ただ、思ってた展開と違うっていうんかな?
……とにかく、結構急いで行かんと」

出来るだけ早く元の世界に至る方法に辿り着いてカイヤに危機を知らせないと、本当に同じ歴史が繰り返されてしまう。
自分が帰れるかどうかというよりも、カイヤの命の是非の方が心の中の比重を占めていた。

「青の国に一番近いルートは……やっぱアルマツィアから船かなぁ?」

「いえ、赤の国の方が近いと思います。
アルマツィアって、関門が厳しくて……。通り抜けるにしても、身分証明で何日も待ちぼうけになるって、父さんが前に言ってました。
白の国の関所で足止めを食らうよりも、赤の国を経由して直接青の国に入った方が早いって」

「……トキちゃん、詳しいなぁ。勉強苦手や言うてたのに」

「数字は嫌いですけど、地図は好きなんです。父さんがいろいろ教えてくれたから。
数字は目に見えないですけど、地理って目の前にあるでしょう?」

――“文系”ってやつかな。

ハイネはにわかにそう予想して笑う。



そろそろ寝ようと布団を敷いていたところで、突然扉が開いてアキが入ってくる。

「こ、こら、アキ。
姉さんはいいけど、お客さんがいるお部屋にいきなり入るなんて……」

「姉ちゃん、ズルい。ぼくだってこんな集落から出たい。
なんで姉ちゃんばっかり」

アキは頬を膨らませている。
根の部分は年相応の少年なのかもしれない。

「アキ、私はさっき言った通り……」

「ぼくがどんな気持ちで生きてるか考えたこともないくせに!
姉ちゃんは自分勝手だ。姉ちゃんがいなくなったら、ぜーんぶぼくがやらなきゃいけないんだぞ!
父さんと母さんが喜ぶように、毎日毎日“いい子”で暮らしてさぁ!!」

「アキ……」

たった7年の人生しか生きていない弟。
それでもトキには彼の言葉が深く刺さる。
俯く彼女を見るハイネは、ずりずりと前に出てきて握りしめられているアキの小さな拳をそっと手にする。

「な、何すんだよ、不審者!!
お前はいいよな、どうせパパママに甘やかされて育ったんだろ!!」

「アキくん」

ハイネは微笑む。

「うちな、おとんもおかんもいないんや。兄ちゃん姉ちゃんもおらんのやで。うち1人や」

目の前の姉弟が一気に青ざめる。

「たった二日やけど、すっごく楽しかった。おとんとおかんのいるおうちってこんな感じなんやろな、なんて。あったかくて、賑やかで。
――うちのおかんは、うちを産んですぐ死んでもうた。おとんは、うちがちっちゃい頃に仕事中に死んでもうた。
すごく、すごく、羨ましい。トキちゃんとアキくんのおとんとおかん、めちゃくちゃえぇ人や。ま、知ってたけど!
……というのは、さておき、や。
褒めてくれる、叱ってくれる人がいる、……大事にしてくれる人がいるって、とっても恵まれてる事なんやで。
だからな、ご両親の事、悪く言わんといて。
それと、あの2人なら……アキくんが“悪い子”でも、ちゃーんと大切にしてくれるはずやで!」

アキは唇を“へ”の字に曲げている。言い返す気は失せたようだ。
ブンッ、と乱暴に腕を振ってハイネの手を払いのけたアキは、「べー」と舌を出した。

「好きにすれば!! ぼくも好きにするし!!」

吐き捨てるように告げたアキは部屋を飛び出していった。



「……アキったら、本当に失礼な子で……」

「えぇよ、えぇよ。ガキんちょはアレくらいがフツーや!
むしろ安心したわ!! アキくん、ほんまうちより大人みたいやったからな!」

あはは、と明るく笑い飛ばすハイネを見つめるトキの瞳。
こんなに快活そうな年下の少女なのに、自分よりはるかに辛い道を歩いてきたのだろう。

――私も、もっとちゃんと世界を見てこなきゃ……。

今夜は2人揃って同じ部屋で眠る。
布団を隣同士で並べ、ハイネとトキはぐっすりと眠りにつく。





――何だよ、何だよ。全然カッコよくない!

アキはわざとらしく足を踏み鳴らしながら廊下を歩く。
自分の部屋の手前まで辿り着いたところで、父親が待っていた。

「……と、父さん」

いつもは固い表情の事が多いアンリが、今は少し微笑んでいる。
その様子を察するに……――

「き、聞いてたの?
その、姉ちゃんと、不審者の……」

「ちゃんとハイネさんと呼びなさい」

「むぐ」

決まりが悪そうに足先で床をぐりぐりと押すアキの頭に、ぽん、と暖かな手が乗った。

「アキ、本当はお前も“悪い子”になりたいんでしょう?」

「べ、別に……」

「それじゃあ、これはいらないですか」

しゃがんだアンリが差し出したもの。
――地図だ。

「これ……」

「お前はこう見えて、姉さんが大好きでしょう。
素直に心配だと言えばいいのに、まったく誰に似た天邪鬼なのか」

イタズラっぽく笑っている父親の顔。

「もしもこの地図を受け取るなら、お前はもう立派な男ですね。
さぁ、どうします?」

父の言葉が意味するところ。
聡明なアキはすぐに察するのだった。

――小さな手が、差し出されたその地図を握る。

「ようこそ、“大人の世界”へ。
さ、もう寝なさい。姉さんをしっかり守るためには、まず健やかな生活を営んで心身を成長させねばね」

「……父さん、ありがと。
ぼく、母さんは面倒くさいけど、父さんは好きだよ」

「こらこら。僕の説得のハードルを上げるんじゃない。
お前をこっそり送り出した後の僕の身にもなってほしいものです。
今末恐ろしいのはうちの“お局様”なんですから」

秘密の忍び笑いを交わした親子は、おやすみと特別な夜の別れを告げた。



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